*は訳者注です。
7/9(水) 第4ステージ 残り1kmで1度に (タイラー・ハミルトン:CSC)
更新が遅くなってすみません。この72時間の間はまるでジェットコースターにいるようだった。 驚くことではないが、今年のツールドフランスにおける調子や僕の健康に関するさまざまなレポートがあって、 だから少し時間をとって、僕に起こったことを全て文章にしておこうと思う。

ツールドフランスへの準備がいかにハードなものかということについては、おそらく1000回以上話したことががあるだろう。それは1週間ですることでもないし、最後の瞬間に1年の目標リストに付け加えるものでもない。 ツールでチームをリードすることができると言えるほど大胆になりうるところへ適切に自分を持っていくために、1年のいい時を必要とする。 全てを犠牲にして、全ての時間をトレーニングに費やし、11ヶ月間ずっとツールドフランスのことで心を悩ませる人がいれば、ツールドフランスへの準備はその人の人生をほとんど引き継ぐことがある、ということは簡単に終わらせられるだろうに。

たとえ運が良くて7月に向けてほとんど完璧に仕上がっていたとしても、それは今年の僕がそうだったんだが、全てを変えうる物事がまだかなりある。そして、運の悪いことに、大半はコントロールできないものだ。 好天を注文することもできないし、病気を避けるために泡の中で生活することもできない。 そして大集団の中でひしめいている時には必ずしもいつも自分を守れるとは言えない。

ツールの第1週はいつも高速だし、ピリピリしている。例年、序盤のステージではクラッシュが多い。 しかしいつものクラッシュは、僕たちが第1ステージで遭遇したようなクラッシュのレベルではないんだ。 大集団が集まっていくにつれて、クラッシュは僕が体験した中でも最悪なものになった。 クラッシュについては本当に説明することができない、それは一瞬の出来事で見たり聞いたりすることさえできなかったから。僕に分かっているのは、スプリントに向かおうかと思って、勝利に向かって進んでいく選手達の後ろにいたことまでだが、集団の先頭にくっついていたらトラブルは避けられただろう。 標準的に、もしクラッシュがゴール近くや残り数kmのスプリントで起こるなら、集団後方にいる選手達への影響は最悪なものになる。

だが日曜のそれはちょっと異常だった。クラッシュは集団前方でおこり、あっと言う間に集団に広がった。 左側にいた選手が僕の方に滑り落ちて、僕は右側の背中と頭を地面に強打した。僕はすぐに起きあがってゴールラインへ進んだ。チームメイト達がバイクにまたがっったまま、僕の周りを囲んでいた。頭を打って気絶していたんだと思う。バイクに戻った時には実際痛みがあったけれどもその痛みを緩和している時間はなかった。しかしゴールラインを超えるとすぐに、肩に何かまずいことが起こったのがわかった。パニックにならないためには、相当な精神力と体力が必要だった。これが、とにかく、たった1つのステージだった。

ゴールラインを超えた時、僕がケガをしているにも関わらず、ランダムの薬物検査に呼ばれた。だからレース後すぐに検査に行かなくてはならなかった。検査に行く途中、ライフェマー(RAB)を見かけた。彼も苦しそうに倒れていたが、僕が見た時はまだアドレナリンの影響をまだ受けているようだった。なぜかと言うと、彼は自分自身のことよりも僕がどうして肩を固定しているのかを心配していたからである。

検査の後、X線写真をとるために救急車で近くの病院へ運ばれた。痛みは増すばかりだったが、僕は折れてはいないと望みをつないでいた。僕はすぐに連れて行かれ、そして着替え終わるとすぐに結果が渡された。ベルヌ監督の顔を見れば、結果が良くないことは分かった。それから監督は「鎖骨が折れている」というジェスチャーをした。どう反応していいか分からなかった。まるで部屋の中の空気を全部吸い込まれてしまったかのようだった。骨の根元で「V」の字を形成している右鎖骨の骨折が2カ所だった。その瞬間、僕のツールは終わった。

病院を出ると、ライフェマーにばったり会った。彼は尾骨骨折ということだった。僕は悪夢をさまよっているような気がした。病院には診察を待っている選手がそこら中にいた。僕は車から妻に電話をし、最新状況を知らせた。その時5つ以上言葉を交わしたかはわからない。2人ともショックを受けていた。

レースを続けることについていつから考え始めたかは覚えてない。しかし日曜の夜だいたい8:30までには、チームは記者会見を開き、X線写真を公開して僕の鎖骨が折れたんじゃないかという噂を確定することを決めていた。おかしなことに、ベルヌ監督も僕もそんなことを言うつもりはなかったけど、僕はレースをリタイアすることを告知するはずになっている、と思っていたんだ。

おそらくこんなに短い期間で、この状況の現実性に真剣に取り組むことができなかったんだ。 誰にも分からない。だが明日の朝は少なくともバイクに乗ってみようと考えながら寝たんだ。 どういうわけか、誰かが「やめ時だ」と言うには早かった。乗れない、ということを自分自身に証明しなければならなかった。

この日の夜はほとんど眠れなかった。今日起こったできごと全てに思いを巡らせていたし、肩の痛みはかなりひどかった。チームの物理療法家のオールは、夜の間ずっと僕のために尽くしてくれた。首、背中、鎖骨は全てでこぼこになっていて、オールが夜中もずっとマッサージしてくれた。彼は僕の隣のベッドに座って、痛みを緩和させようとマッサージをしてくれた。

チームが第2ステージのスタートに着いた時、やじ馬的なカメラマンやレポーターがたくさんいた。 バスから1歩出ると僕は囲まれた。そして、信じようと信じまいと、そのカメラのフラッシュで鎖骨をぶつけられた。

ラッキーなことに、ジャージの下にしっかりテーピングをしたおかげで、痛みが増すことはなかった。 ベルヌ監督でさえカメラに目の上をぶつけられていた。正気の沙汰じゃなかった。そういうわけで、バスで出走サインに行く前に、このコンディションでレースを続けるということを正確に説明しなければならなかった。僕たちに言えることは、自分たちが努力している、ということだけだった。この時、1kmいけるか10kmいけるか僕には分からなかった。この努力がふいになってしまうかもしれないという事実に対しては心構えができていた。僕のレースバッグは補給地点で僕を待っていて、結局物事はそうはならなかった。

第2ステージの間、チームメイトは僕から離れなかった。僕たちは集団後方にいて1km1km進んだ。 昨日のクラッシュの影響をたくさんの選手が感じていたせいか、ラッキーなことに、今日はすごく難しい日にはならなかった。スピードも扱いやすいものだった。しかしレースが終わった時僕は消耗していた。疲れを感じた時を思い出すことができない。

ヘイブン(*ハミルトンの奥様)とタグボート(*愛犬)がスペインの自宅から1,100kmをドライブして、ゴール地点のセダンへ来ていたが、チームのホテルへ着くまで彼女たちには会えなかった。その日のレースがどのように展開したかにかかわらず、ステージが終わった時には彼女たちは僕に会いたがった。

第3ステージは集団が高速で展開していたので、僕には少し難しい日となった。ちょうど昨日と同じように集団に後方にいた。ある地点で横風が集団を2つに分断してしまうという小さなトラブルに見舞われた。先頭集団に戻るために力を使わなければいけなかった。余計な力を使ってしまった。おとといの夜よりも昨夜の方が痛みが増していた。

レースに残ることを決めた後、目標を掲げるとすれば、チームタイムトライアルをやり抜くことだったと言えるだろう。走り続ける手応えは全く無かったが、昨日(*第4ステージ)はチームにとって重大な日となった。カルロスが総合を狙える位置にきていたので、タイムロスはさせたくなかった。チームの全員が全力を注いだおかげで、僕は自分の役目を果たすことができて嬉しかった。しかし僕は歯をかみしめすぎた。今日以降歯医者にも行くことになるかもしれない。

第4ステージの後、骨折がきちんと直っているかどうかを見るために、X線写真をもう1度撮るつもりだった。 しかし、ホテルがかなりいなかにあったため、病院から戻ってくるのは翌朝になりそうだった。

舞台裏で
第1ステージの後、チームのメカニックはタイヤに接着剤をつける作業で遅くまで忙しくしていた。 全ての選手の後輪が、クラッシュを避けるためにブレーキを強くかけたため、ことごとくパンクしていたのだ。

この2日間にわたって応援してくれたみなさん、ありがとう。メールや手紙の多さに本当に圧倒されたよ。 僕を支援してくれるみなさんの努力に本当に感謝してるよ。

読んでくれてありがとう。